発達障害っぽい、元々賢さにおける頭が弱い、
機能不全家族、親も賢さにおける頭が弱い、アダルトチルドレン、AC、
私の生きづらさには色んな原因があって、
これさえ解決すればとか、これさえしていればOKという話ではなく
明確な1つの答えがあるわけではないけれど。
私の生きづらさの原因として、かなり大きく影響していたのは
正直、そうなったのは何が原因なのか自分自身よくわかりません。
心が壊れ始めたのは幼稚園の頃、既にそうなっていた。
心が限界に疲れているから幼稚園を休みたいと言っても、
親は鬼のように怒り休ませてくれなかった。
幼稚園や小学校のうちこそ、後からいくらでもどうにでも出来るんだから
子供が、そんなに限界なら休ませてあげれば良かったのに。
親が周囲の人から変に思われるからという理由で、
私が限界に疲れているところを更に
怒って怒って責め落として休ませてくれなかった。
休ませてくれても、鬼のように怒って休めていないし
母親もキレるように「うちの子が行きたくないっていうから幼稚園休ませます!」
って幼稚園に電話して、
母親は「幼稚園の先生、みんなあなたのこと呆れて笑ってたよ」と私に言い。
親は外の人の味方、私の命よりもよその人にどう思われるかが大事。
私の母親は、この人は私の味方じゃないんだと
幼稚園の頃の時点で思った。
母親が、わざとではないですが、外食というシーンで
熱いお茶を誤って手をすべらせて湯のみをひっくり返して、
小さな子供である私の脚にかけた時も、私にかけた言葉は
大丈夫?という言葉ではなく、「みんな見てるでしょ、騒がないで!」でした。
私の両親は子供を愛そうとする気持ちは本当なのですが
私と同じで賢さにおいて頭が悪くて、どうしていいかわからないゆえに
子供が限界に疲れているところを
本来味方であるはずの親が更に攻撃してしまうのだと思います。
昔は結婚して子供を持つのが当たり前という時代だったから
用件にピントが合ってない、心の回復や成長がまだ未熟な時点で
子供を持ってしまったのかな。
私もまだ、自分を持ってないし、人が怒っていたらそれに囚われてしまうし
大人になった私自身も、子供を持てる域に達していないと思うけど
現代は子供を持たない生き方も珍しくなく、
急ぐ必要も子供を持たなきゃいけない理由もないので。
幼稚園の時点からずっと強いストレスの中生きてきたのは事実ですが
これといって何が原因で過剰同調という認知になってしまったのかはわからない。
人に気を遣いまくって疲れてしまうところもあります。
人の顔色うかがって
- 一人にも嫌われちゃいけなくて
- 全員に好かれなきゃいけなくて
- そうできなかったら私が悪くて
- もしも私のことを嫌いな人がいたら私が悪くて
- 連帯責任でもない事柄で私にケチつけてくる人がいても全て私が悪い
- 私が間違っている
- 私が低い
という発想しかなく。
そんなの無理なんですけど、無理なところをやろうとして、
出来なかったら自分が悪いと思って更に疲れていくのです。
例えば、行事で、私のことを嫌いだとわかっているAさんと
たまたま無作為に割り振られて同じグループになったとします、
ただ用件をこなしていればいいところを私は、Aさんに対して
「Aさんは私のこと嫌いなのだから一緒にいさせて申し訳ない」と思い
全ての意識をそっちに取られ、用件も手につかずそれが余計迷惑とか。
なんでも肯定しようとして、辻褄が合わなくなったり、信用のない人になったり。
人を全肯定する理由は、好かれたいという気持ちと
なんでもない子供同士の会話で冗談でのツッコミも親が見張るように規制したり、
全否定で育てられたから自分が肯定されたい気持ちのあらわれだったり。
私はいつも必死に人の顔色をうかがい、人に気を遣って生きていましたが
気を遣って更に皆さんに嫌われていく、距離を置かれていく私。
一方、
人を傷つけることを平気で連打するような人でも、
やること出来ていれば普通に友達がいて、理不尽さを感じたり。
私は、いつも人に気を遣って、嫌なことを言われても我慢しているのにって。
面白くない。
今は私がズレていたのもわかるけど。
それが、私の人生を壊した、大きな原因であったと思います。
そしてその原因の1つとして過剰同調という言葉がしっくりきました。
自覚してからも、人の顔色うかがってしまうのを
今すぐやめられるものではないと思います。
一度出来上がった認知を、
答えを見たからってどうにか出来るものではないと思う。
だけど、自覚しているから、
理性で工夫してセーブというのは可能かもしれません。
淡々と用件だけこなして喋らないとか、
相手が怒ってる怒ってる~、というモヤモヤが始まった時、
とりあえず趣味の本を読んだりして意識を別のことに集中させるとか。
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