今は出来ないのだから仕方ない

過去の回想と内省

私は子供の頃から大人になっても無自覚な低血糖により、

心の問題ではなく体の問題で物理的に

「普通の人には当たり前のことが、できないのが仕方ない」状態だった。

体がおかしいこと自体は気づいていたけど

それが何であるのかわからなくて、

悪気はないけど幼稚な両親の元、否定否定で育てられていることもあって

私自身、全てを「私の性格の問題や努力不足」だと思っていた。

 

私の体調の悪さや頭が回っていない原因が

機能性低血糖なのだと気づいて

体調も頭の回転も回復してからのほうが

できないのが仕方ない状態だったのだ、と

自分を受け入れることが出来るようになった。

 

出来なくても仕方ない状態だった時のほうが

全ては私の努力不足と思って自分を責めていた。

 

私が著しく不器用だった原因は

低血糖やビタミンB群の欠乏だったと思うけど

それはたまたま私がそうであっただけであって

そしてたまたま気づくことが出来た。

大人になってだいぶ経ってからだけど。

そして改善した今でも、情報がない時代という点も含めて

原因に気づくことは無理だったと思う。

 

頭が回っていない、原因がわからない。

その時、原因に出会えるまで

ただただ無難にやり過ごすしかないと思う。

 

体は検査にひっかかることはなく、IQもまともなので

私は「健常者」として生きるしかなく。

社会人になってからは生活がかかっている世界だから

やることできてないと相手にされないのは仕方ないと思うけど

子供のうちから

出来ないのが仕方ない事情があるのに

そして出来ることもあるのに、全てが出来ないわけではないのに

健常者と同じように、コミュニケーションを求めるのは疑問を感じる。

私が健康ではないことは誰もわからないので、私自身もわからなかったので

それ自体は仕方ないことだけど、

みんなと仲良くしなさい、と言われたところで

人間関係がうまくいかない人というのは

「今は出来なくて仕方ない状況」なのだから

1人で過ごすことを認めるほうが、

私にとっても他者にとってもお互いに良いのではないだろうか。

みんなと仲良くしなさい、と言われて出来るなら、やってるでしょ。

なりたくてこうなってるわけではないし

私の中では、一生懸命やっているんだよ。

それでも出来ないんだよ。

「やること出来てない」のは事実であったけど

私だって出来るならうまくやりたいし、善意で動いていたし

いつも人の顔色うかがって気を遣いまくって生きてきた。

出来ないのが仕方ない人相手に、

みんなと仲良くしなさい、って口でいうほうも

どうかなって思います。

今思うと、クラスにはみ出てる子がいると

担任が、主任など上の立場の人から何か言われるのかもしれない、

あまり良くない環境なほどに、力任せでどうにかしようとする。

でもそれは担任、教師の都合でしょ。

教師の都合だけで、こちらの体調が良くなるわけじゃないんだよ。

仮に私の具合が良かったとしても、人間関係の強要自体、間違っていると思う。

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出来ない子に、今日から明日から出来るようにしなさいって言ったって

無理な話だし、それよりも

「1人で過ごすこともアリ」

義務教育まではお友達と組まなくても困らない環境を、

1人でもクリア出来る義務教育にしたほうが

現実的じゃないのかなって思います。

 

例えると、今、ペンを求めている人に

バケツを持ってくることを繰り返されたら迷惑でしょ?

その場の需要に合わないものを送り続けることは

誰かが1人で過ごすこと以上に不利益なことだと思うのです。

合わないのなら、ただ、一緒に居なければいいじゃない。

コミュニケーションは苦手でも他に出来ることはあるのだから、

なにもできないわけではないのだから、

わざわざ出来ないことをやらせ続けて気力を奪うよりも

出来ることをやったほうが有意義でしょ。

今の私には出来ないのだから仕方ない、

一生出来ないかどうかはわからないけど

とりあえず今は出来ないのだから仕方ない

そういう割り切りも必要だと思います。

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