叶えたいことがあって
自分のために一生懸命になることは良いことだと思います、
自分がやりたくてやっているなら良いと思います、
そういう努力の話ではなく
画一的を求められた努力、という話です。
私が低血糖により頭が回っていなかったことにまだ気づいてなかった、
発達障害っぽい私だった頃に、よく思っていたこと。
苦手なコミュニケーションや空気を読むこと、人に気を遣うことに
全力を注いで、他のことやる気力がなくなってしまうことが
その時間と労力の使い方が、もったいないと思っていた。
人とうまくやることは捨てて、
自分のやりたいことに専念したらいいんじゃないかと思っていた。
子供の頃からそうしていれば良かったと思っていた。
どうせ努力したって努力でどうにかなることじゃないし。
私は空気を読めないことを自覚して、
いつだって必死に人に気を遣って生きてきました。
それでも性格の悪い人、やる気のない人、悪意、という
評価しか得られないのです。
低血糖で頭が回っていなかった時の方が
全ては私の努力不足と思っていました。
頭が回っていない原因がわかって改善してからの方が
あの時の私にはどうやっても無理だったから仕方ない、と思います。
むしろ早くに「自分には無理なんだ」と見切りをつけて
自分のやりたいことに専念すれば良かったと思います。
今の今はわからないけど、私の時代は
コミュニケーション能力前提の時代だったし
たまたま勉強も運動もコミュ力もまあまあ出来る人が
受け入れられる時代だったと思います。
特に出来る人はそれに越したことはないけど、
特に出来ない人は、他に出来ることがあっても
受け入れられない時代、
コミュ力がないだけで全てを塞がれてしまうような時代だったと思う。
勉強はちょっと苦手だけど運動が出来る人、
絵がうまい人、字がうまい人、お話が面白い人、
色んな人がいて、将来は色んな仕事があるはずなのに
なんで「コミュ力」っていうたった1つが欠けているだけで
全てが塞がれてしまうシステムなんだろう、って疑問に思います。
そんな不利を乗り越えて開花した人は素晴らしいと思うけど
それはほんの一握りだと思う。
自分の目標のために一生懸命努力するのは良いことだけど、
「一般」や「普通」に適応するためだけに
身を粉にして努力したうえに報われないのであれば
向いていないのだと思う。
向いていないことをやろうとして時間と労力を無駄にするよりは
出来ることをやっているほうが自分にとって良いと思います。
自分の目標のために自分のために努力するのは良いことだけど
努力すること自体が良いわけではないし、
なんでもかんでも努力で叶う、なんでもかんでも努力不足とみなす発想、
そのように画一的を強要する発想は時代遅れだと思う。
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