頭が回っていないゆえのトンチンカンに加えて
悪気はないけど余裕のない両親の元で育った機能不全家庭育ちで
アダルトチルドレン認知だった私は
人を嫌ってはいけない、人を疑ってはいけないという
融通の利かない認知だった。
そんな私もダイレクトな対処に弱いだけで
物事がわからないわけではないので
人が嘘をついている時、悪意を持って動いている時に
どういうことなのかまではわかっていた時も多い。
わかっているのに、人を嫌ってはいけない!みたいな
融通の利かない認知で、うまく立ち回れなかった。
人を疑ってはいけない、人を嫌ってはいけない!で止まってしまって
どういうことなのかわかっているのに対策をするという発想がなかった。
物事をトータルで考えて、あえて事実を追及しないこともある
昔、知人Aが「親友の家で友達同士の集まりに行ったら、私のバッグの中から所持品がなくなっていた」と言っていた。そこには、知人Aは知らない人もいたという状況。親友とは知り合いだけど知人Aとは知り合いではない人もいたそうです。
知人A←(知り合い)→親友
親友←(知り合い)→親友の友達
知人A←(初対面の人)→親友の友達、という感じです。
なくなった所持品とは、無くなったら絶対に困るような大事なものであった。
でも知人Aは「親友の友達を疑うことはしたくないから」と割り切って諦めていた。
私は、誰が…と考えると、その日親友の家にいた誰かだと思うのに
なんでそんなに大事なものが無くなっても割り切れるの?
って不思議だった、その時の私には理解できなかった。
例えば私が、持ち物をバッグごと無くしたとします、その時
所持金を失うことも痛いけど
日常的に必要だったもの全てが無くなることがまた非常に困ります。
どうしてそんなに大損害を受けて割り切れるのか不思議だった。
どういうことなのかわかっていても、どうにもできないこともある
知人Aの場合、親友が…という可能性はまずないと思うけど
その場にいた誰かが、と考えるのが妥当な状況だった。
家の中に入ってトイレに立ったら無くなっていた、というような
状況だったので。
外で失くしたなら、自己責任だと思う。
でも家の中っていうのは…。
誰、って誰か1人は特定出来ないけど
その日いた誰か、と考えるのは妥当だと思う。
しかし、親友の知人をもう一度集めて
誰がやったって問いただすわけにもいかないし
証拠がないし、親友にも負担をかける。
そういうわけにもいかない・そうするわけにもいかない、ということなのだと思う。
出来ることといえば警察に被害届を出すくらいで
それ以上のことは個人には出来ない。
個人にはどうにも出来ないし
親友にも負担をかけたくないから
知人Aは、それ以上の追及をしなかったのだと思う。
誰に悪いから「疑わない、信用する」というわけではなく、
これ以上追及すると結果的に自分が疲れるだけだから
自分のために人を疑わない、これ以上追及しないのだと思う。
たとえ、どういうことなのかわかっていたのだとしても。
追及はしないけど今後の対策はしっかりとする
明らかにどういうことかわかっていても
どうにもできないことや、
どうにかしようとすることで事を荒立てるような場合に
定型は、起きてしまったことは情報として脳内に留め、今後の対策に活かし、
それ以上は追及せずに、今回のことは諦めるのだと思う。
知人Aの件で言えば、今後は短時間でも荷物は肌身離さず持ち歩くようにするとか。
所持品がなくなった時にいた親友の友人が来るお誘いには出来る限り行かないとか。
追及はしないけど、今後は隙をつかれないように対策はするのだと思う。
過去の私が、もしも同じような状況に遭遇してしまったら
「人を疑うのはいけないこと!」っていう融通の利かない認知で
今後の対策もせずに、人を疑ってはいけない止まりということを
やりかねないと思う。
定型はなるべく角を立てないように動くけど、
今後、同じことが起きないように対策はしている。
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