イイヒトっていうのは人として良い人という意味ではなくて
嫌われたくなくて、好かれていたいから
なんでも譲って、なんでも要求をのんじゃうこと。
過去の自分を振り返ると
イイヒトではなく
用件を見れていない迷惑な人だったと思う。
趣味や目標なく、ただただ人の顔色うかがって生きていて
中身ないまま、
イイヒト演じれば仲良くなれると思っているという勘違いもあったけど
善意のつもりが相手には迷惑になっているという認知のズレもあったと思う。
悪意は全くなく、素の善意で行動し
得もしていなければ、むしろ損をしているのだとしても
相手には迷惑で嫌われていく私。
それにより相手もイライラするし、
善意で動いているのに報われないこちらもイライラしていく。
過去の私に対して、
わからないのなら余計なことはしないのが無難であったと思う。
考えて、努力して、どうにかなるものではなかったので。
努力でどうにかできるのであれば
過去の私のような困った人は存在しないはずで、
努力や性格の問題ではなく「普通のことができない人」というものが存在します。
頼まれるとなんでも叶えてあげようとしてしまう私
昔々、大学の夏休みの頃
知人レベルの浅い仲の友人Cさんに
A駅までノート持ってきてと頼まれた。
A駅は確かに通学している時は通学路なんだけど
家からは遠くて、夏休みは定期も切れているし
気軽にいける距離ではない。
Cさんとは特に仲が良いわけではないから
Cさんは私の家がA駅から遠いことを知らない、
ただ、通学中はA駅から帰っていた程度しか知らないと思う。
だからそのようなお願いを私にするんだろうけど
Cさんの用事のためだけに
私が往復で1000円近く交通費を払うのはおかしいと思うし、
徒歩や自転車で行く距離ではない。
不器用さ、承認欲求、客観性の欠如などが連なって、断れない自分がいた
普通の人だったら「ごめん定期券切れてるから」とか
「うちの近くまで取りに来るならいいよ」等と返すと思うんだけど
不器用で断り方がわからない。そして
一生懸命やったって、状況的に仕方がなかったことだって
全てを私が悪いとみなされて批判的・否定的な評価しか得られない中を生きてきて
基本、人は私のことを受け入れないという前提が出来上がってしまっているので
人の役に立って好かれようとするズレた発想がある。
こういった背景から、自己中で理不尽な要求にも
なんとか応えようとしてしまうところがありました。
Cさんは私しか友達がいないわけじゃなく、
知人程度の仲で特に仲良くはなく
授業にもそこそこ真面目で、頼みやすいから私に言ったのであり
断ったら断ったで他をあたるでしょ?
過去の私は、そういう客観性も欠けていた。
幼少期から体調が悪くて出かける体力がない
当時は情報がなかったから、この辛さがなんなのかわからなかったけど
低血糖体質で常に体調が悪かった。
呼ばれてポンって出れるような気力体力はなく。
常に疲労感が強くて、膨満感がキツくて、腰が痛くて。
病院にも行ったんだけど原因もわからなくて。
甘いものは食べないし、3食もそこそこちゃんと食べていたし、
運動もしていたので食生活の問題ではないと思います。
機能性低血糖により心身共に回っていなかったから
とにかく頭が回らない、どうしたらいいのかわからない、
けど角は立てたくない。
Cさんのノート貸しての件に限らず
私は、毎日、毎回こんな感じで疲れていた。
今だったら、ただ
「ごめん、定期切れてるんだ」とだけ言うかな。
それで充分伝わると思うし
それで伝わらなかったら距離置きしたほうが良い相手だと思います。
自分にメリットがないことは断ることが正解
結局、「車持ってる人に頼んでみたら」って
意味不明な、スッキリしない言い方で断った。
無理ですってことは伝わっていると思うけど
回りくどい言い方をするよりは、
ごめん無理って一言で言うほうが角も立たないと思う。
Cさんとしてはノート持ってこれるのかこれないのかを知りたいと思うので。
ただ定期切れてるってだけ言えばいいのに、
簡潔な言い回しが、とっさに出てこないんだよね。
不器用で、断れないイイヒトな自分が
私は嫌いだった。
Cさんのノート貸しての要求は
私にはなんのメリットもない。
お互いにメリットがある要求や
たやすく叶えられる要求だけ応じていれば良いと思う。
頭が回らないながらにも
過度にイイヒトをやってはならないことまではわかるので
頭が回っていない時代の私が何かお願いごとをされると
うーん、、、ってすごく考えた。
応じることは可能だけど
そこまでしていいものか、って。
お互いにメリットがあるやり方が最善
「情けは人の為ならず」ということわざのように
結果的に自分に、そしてお互いにメリットがあるなら
いいんじゃないの?って思う。
例えば、ごはん奢るからノート貸してって言われたら
外食したいなら行けばいいし
いらないなら「ごめん用事が」って断ればいいし。
例えば、既に観たことがある映画に
どうしても一緒に観にいく人がいないから付き合ってと言われた時に
もう一回見たいなら行っても良いし
もう一度見たいと思わないなら断れば良い。
こんな当たり前のことも、
自分の人生を生きていないアダルトチルドレン+頭が回っていないことにより
できなかった、わからなかった。
優しい心自体は悪いことではない、必要なことは優しさを使う場面を間違えないこと
イイヒトな自分が嫌いだったけど
私は元々、慈愛の心・慈愛の精神であることも本当で
これはこれでいいんじゃないかなって思います。
誰彼構わず尽くすのは良くないし、
距離や客観性を把握して判断することは必要だけど
優しい心を持っていること自体は良いんじゃないかな。
使う場面を間違えないように自分でセーブできれば。
育った環境と体調不良により認知がずれていたので
私が慈愛の心を使っても、ズレていて
自分にも良くない行動言動をとっているし
他者にも迷惑であったと思う。
認知がズレている状態のまま親切をしても、自分では親切をしたつもりでも
それがかえって人に迷惑となるのですよね。
過去の頭が回っていなかった私は
空気を読めない・わからないのなら余計なことはしない、
悪気はなくても善意でも迷惑は迷惑ということを理解する必要があったと思う。
人のことをやろうとする前に、まずは自分のことをやる。
そういう客観性が抜けていたのも、
頼まれると断れない原因の一つだったと思う。
否定ばかりされて生きてきたから、誰かに肯定されたくて
尽くすようになっていたと思う。
でも自分のことも出来ていない人に、お手伝いをされても
相手も迷惑だから。そういう客観性は必要だと思う。
世の中黒い人間、触れない方が良い人間もいるので
誰かれ構わず親切にするわけにもいかないけど
お互いにメリットがあって、やってもいいと思えることなら
他者からのお願いごとに応じても良いと思います。
自分に何もメリットがないのなら断ったほうが良いです。
なんでもイイヨイイヨって応じていると
それなりにメンドイ人間に粘着されちゃうので。
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