子供時代、一生懸命なのに、あまりに何もかも出来ない私に対して
かわいそうだと思って仲良くしていた人もいることに最近気づきました。
これが勉強に対してだったら良いのですが、そうではなく
意味ないこと限って無駄に記憶力が良いので
過去の出来事を日記のように覚えていて
寝て起きた時に脳内に浮かぶことが多いです。
嫌だったことは記憶に残りやすく思い出しやすいけど、
嫌なことだけじゃなく、なんでもない日常の風景も
起床直後に脳内に映像が流れます。
私に対して弱者とみなし、仲良くしてあげていた人
錯乱している状態を生きてきました、でもその原因が体にあることがわかってから
体調と思考力を取り戻しているので、
昔を思い出した時に、おそらく妥当であろう答えもわかるようになりました。
最近ふと思ったことは、
この人、私に対して友達として仲良くしていたんじゃなくて
弱者、普通より下、かわいそうな人とみなして、
私と仲良くしてあげていたんだろうなって思う人が過去に存在しました。
仲良くしてあげている、ことをわからない私
私はそんなこともわからず
ただ、友達出来たと思っていました。
表面や一点しか見えてなくて
周りや背景を見渡すことが出来ないので。
本当にお友達として話しかけてきたのではない、という客観性
例えば、SNSである日突然、私に話しかけてきた人がいたとします。
客観的に考えて、その人は誰にでも話しかける人なのでしょう、それかたまたま気が向いたとか。
特にこれといったものもない私を選んで話しかけてくるということはまずない。
そこを思考力がない状態だと、ただ友達出来た☆って受け取ってしまうのですよね。
現実でも私はそんな感じでした。
客観性のなさ、視野の狭さを自覚して恥ずかしく思う
自分のみっともなさを今頃になってようやく実感して
寂しさや恥ずかしさを感じます。
勘違いで、ただただみっともない痛い人だなあと思います。
それと共に、やむをえない原因があったから仕方ないかなとも思っています。
いじめをするような体力や思考力がなかったことが不幸中の幸い
やられっぱなしで、いじめをしていないのが不幸中の幸いというか、
気分を害するという意味では、たくさん迷惑をかけていたと思うけど
体力も思考力もないので、人を陥れる立ち回りもなく、
自滅がほとんどで実害はなかったと思います。
愛されて育った子は、人にも優しい
子供時代に、私に対して、
かわいそうな気持ちで仲良くしてあげる人というのは
ご自身が、親に愛されて肯定されて大切にされて育っているから、人に手を差し伸べる心の余裕や、人の悲しい顔を見たくないという優しさを持っているのでしょう。
大人の世界では、自分に関係ないものには手をつけてはいけない
大人の世界だと生活がかかっているから、仲良くもないかわいそうな人に手を差し伸べるのが良いとはされません。
ものすごく余裕があるのなら話は別ですが、
たいていは自分と家族を守ることで精いっぱいでしょう、その状態で赤の他人にかわいそうだと思って手を出すほうも、自分の大切にすべきものとそうでないものを区別できない分、自分自身の大切なものを大切に出来ない=やることが出来ていない人となります。
生活がかかっていない子供時代の善意は本当の善意
生活がかかっていない子供時代の善意は、純粋な善意なのでしょう。
私と「仲良くしてあげていた子」は、後に陥れるためにフレンドリーに近づくなどという黒い目的もなく、後に豹変することもなく、素の優しさでした。
自分に対して反省はあるけど、無邪気に嬉しそうにする私に対して、相手もそれが本望だったのではないだろうか
かわいそうな人として仲良くしてもらっていたことに複雑な気持ちはあります。
相手がどうこうではなく、そういうのもわからずに、ただ友達出来たってしか状況を把握できない私の頭の弱さに、虚しさを感じる。
しかし、相手も「仲良くしてあげてる」という素振りを見せず、私が嬉しそうに楽しそうにしていることが本望だったと思うので、私も仲良くしてくれと頼んだわけではなく、相手がそうしたくてそうしたことなので
色んな意味で、もういいかな。
お互いさまということで。
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