オトモダチゴッコ

過去の回想と内省

私と、私の父親の発想は

一般的なお友達への認識からはズレていて

「お友達ごっこ」であったと思う。

 

父親の気質を強く受け継いだ私は、

空気の読めない人、なんかズレている人だったし

父親もそうだった。

自己中心的とか意地悪とかとはまた違う、

一言でいえばトンチンカン。

全く悪気の無い、素でわからない素でズレている迷惑。

 

友達とは何か、っていう認識も

一般的なものとは大きくズレていたと思う。

 

一緒にあれしたいこれしたい、どこいこう

趣味を共有したい、情報交換したいなど

具体的用件、具体的中身は一切なく

ただ誰かと一緒にいたい、っていう動機だった。

 

中学高校までは「好きな人同士組みなさい」の機会も多かったから

完全に1人だと何かしら困るので

1人でいちゃいけないからっていう理由もあるけど。

 

空気を読めない父親と、

 

人にどう思われるか、

嫌われたくない変に思われたくない最優先の母親の元

私も、人の顔色うかがって生きてきて

いつの間にか、何かをするために誰かと一緒にいるのではなく

一緒にいたいからいるのではなく

友達と一緒にいる自分が、

自分の価値みたいな発想になっていた。

友達と共に過ごす時間が価値なのではなく

いかに友達がたくさんいるように見せることが価値、みたいな。

小学生の子供相手に、仲良くしていた子が離れたら

毎日毎日執拗に文句を言ってくる両親。

もっと広い視点で余裕を持って見守れないのかな…

なんで大人なのに子供同士の人間関係に本気になるんだろう。

 

やがて私は、いつ離れてもいい前提で

人と関わるようになります。

 

私の人間関係への認識が

オトモダチゴッコだったのは

色んな経験、要素が関わっていたと思う。

要約すると、機能不全家庭育ちと

無自覚な低血糖により頭が回っていなかったので

私に、現実的に立ち回る能力が足りなかった。

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友達とは、楽しい時間や趣味など、何かを共有交換するために

自然と一緒にいるようになるものだと思います。

 

その場に一緒にいるように見せるのが友達ではないと思う。

 

親の事情を持ちだして、あなたのためを思ってと称して

誰と仲良くしなさいと強要する母親も

誰ちゃん誰ちゃん、と無意味に私の友達の名前を連呼して

からかう父親も

友達とは何か、友達の意味をわかっていない。

 

私と仲悪かった子も

私は別に意地悪や嫌がらせをしたわけではなく

相手から私に対して、なんかこの人嫌だ、という感じです。

何か決定的に喧嘩したわけではなく

なんか合わない、興味がない、という感じ。

そういうのはさ、どうにかしようとして

どうにかできることではないじゃん。

 

そもそも友達とは、一緒にいたいからいるものでしょう?

 

その場に趣味が合う人がいないのなら、

用件でもない自由な時間は

別に、1人で過ごしてもいいし。

 

友達とは、一緒にいたい何かがあって

自然と一緒にいるようになるものだと思います。

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