用件でもない交換・共有・シェアは必ずしもしなくて良い

過去の回想と内省

うちの親は、人目を気にするためだけに生きているわけに

人と交流する恩恵を受けていない。

ただ我慢するだけ、譲るだけ。損をするだけ。

仕事等の用件だったら仕方ないけど

自由に選べる人間関係において、元々、

お互いにメリットが発生するように交流していけないのなら

自分に必要なものは全部自分で用意して、そのかわり損もしないので

別に無理に人と交換、共有、シェア、交流しなくてもいいんじゃないの?って思う。

 

うちの親は、好かれる子でいて欲しい、

嫌われるのはいけないこと、という発想で

自分の子供に対して憑依してくるけど

そもそも、なぜ人と交流するのかをわかっていないように思う、

私が子供時代の、当時の両親を振り返ると。

 

人と関わることが間違っているとかって話じゃなくてさ、

自分も、1人でいるよりも人といるほうがメリットがあって

相手にもメリットがあって、

お互いにメリットを共有出来るように立ち回れないのなら

用件でもない、自由に選んで良い人間関係において

スポンサーリンク

別に無理に人といなくてもいいんじゃないって話。

 

例えば、

1人でチョコレートとポテトチップスとクッキーと煎餅と飴を

食べたいってなると、

一度のおやつには贅沢すぎるくらいのお金もかかるし、

全部食べ切れないし、食べ切ったとしてもカロリーを摂りすぎ、

開封したらなるべく早く食べ切らなきゃ…とかなっていくけど

 

お友達何人かで持ち寄れば、ちょっとずつ全部食べることが出来て

費用も1品分でOK。

人と交流、交換、共有、シェアするメリットの一例としては

こんな感じだと思う。

 

それを、お互いにメリットがあるよるようにうまく立ち回れるかつ

自分も楽しいのであれば、有意義だと思うのであれば

それも1つの正解なのだけど。

 

自由に関わる相手を選んで良い、自由時間の話なのだから

譲る一方で損しかしない立ち回りしか出来ないのなら

別に、無理に人と関わらなくても良いと思う。

 

今回のおやつの例だと、一品にするとか、

1人で全部買って、食べ切れなかったお菓子は密封容器で保存するとか、

家族と食べるとか、方法はいくらでもあって。

人とお互いにメリットを共有出来るように立ち回れないのであれば

人によって得意不得意、向いてること向いてないことはあって

それは「仕方ないこと」であり、

なんでも努力でどうにかなるわけでもなく、

出来ること出来ないことを把握すること、

自分を受け入れることのほうが有意義なので。

 

みんなと仲良くする自分であらねばならぬ!じゃなくてさ、

それが出来ないのなら、出来ない自分を受け入れて

用件のやり取りと、無難に受け流す程度に留めて、

必要以上に人と関わらない方法もあると思う。

 

うちの両親の問題点の1つは、固定の答えを

こうでなければ!と、持ってきてしまうところかな

出来ないもの、ないものは、ないのだから

いつまでも、無理なことをやり続けようとするのは

時間と労力の無駄かつ、他者にも迷惑をかけるし、

他の方法を探すしかないんだからさ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました