私が結婚しない、妊娠や出産をしない、する気がない理由

結婚や出産をしないのもありな時代 過去の回想と内省

近年は、結婚しない、出産しない、

必ずしも結婚しなくていいという考えの人も増えているようです。

今から100年も昔は、

親が決めた相手と結婚する

家のため、生活のために結婚するというケースも珍しくなく

そこから50年くらい後になると、

身分のための結婚ではないけど、ある程度の年齢になったら

結婚して子供を持つものという概念が強かったと思います。

もちろん、いつの時代であっても生き方に正しい間違いはないのですが。

 

しかし今の時代は、戦後のような「食うものにも困る時代」ではないため、

一般庶民はあまり「身分や生活のために結婚する」という発想にはピンときません。

人々の子孫が生まれてこなくなれば、人類とは、いつかは絶滅してしまいます、現状でそうまでなることは考えられないけど極端な話を言えば。

ですから、結婚して子供を持つもの、という発想自体は今の時代の人でも理由はわかります。それは理屈ではなく、人間としての本能によるものではないでしょうか。

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自分が育った環境を経て、結婚しない、子供を持たないという結論に至る

なぜ、現代人に「結婚は必ずしもしなくていい」という風潮をもたらすのか。

その答えのうちの1つは、団塊の世代と、就職氷河期だと思います。

私の家は、兄と私の二人兄弟(兄妹)でした。二人兄弟というのは特に珍しくもなく、むしろよくあるパターンではないでしょうか。

しかし、私の幼稚な両親には兄の後に私が生まれるまでの年数が短すぎた、

せめて私が小学校一年生の時に兄が中学校一年生くらいの年の差があったら良かったと思う。

兄を出産してすぐにもう一人子供を持つような余裕は私の両親にはなく、

兄一人で手いっぱいの状態だったと思います。

収入と、子供をまともに育てられるかは別の話

お金持ちではないけど、収入としては二人子供を持つことに無理はない家庭でした。

私の両親は大人になっても、人にどう思われるかばかり気にするような人たちでした。

自分のために角を立てないという意味では人目を気にすることも必要だけど、そうではなくて、よその人に嫌われた嫌われたくないばかりに捉われて子供を大切にしていない両親でした。

本人たちには自覚はないのでしょうけど、なんでそんなになんでもかんでも子供に否定の言葉をかけるの?って思うくらい、否定ばかりする親でした。両親自身は自分の謙遜のつもりで子供を否定し続け、自分と他者との境界線を引くことが出来ていませんでした。

自分の子供であっても、子供は親の延長線や付属品ではなく、自分の意思をもった一人の人間

自尊心・自己肯定のない両親のもと、私たち親が低いから子供たちも低いという発想でした。私たち親の分身、延長線上という見解しかなく、子供は新しい仲間、別の人間という発想がないのです。

能力云々よりも、子供を一人の人間として認識することが必要

類まれに、トンビがタカを生むことはあるのかもしれませんが

トンビの子はトンビ、いや正しくは蛙の子は蛙かな、

蛙の子は蛙であることが多いと思います。

だから、このくらいの能力の親から生まれたら、このくらい、という発想は妥当だとは思います。でも能力云々以前に、子供とは親の付属品ではなく、単体で自分の意志を持つ、別の人間なのです。幼稚な両親は、そこを理解できていなかった。

自分なりの幸せを見つけてから親になってほしい

子供のうちから毎日毎日うちの子は駄目だ駄目だ、特別に駄目だ。

よその子は特別に素晴らしいと言い聞かせられて育ってきました。

そのわりには習い事などの必要なレールは何一つ敷かず、何もやらせず、何も見せず

狭い世界で、ただただ、うちの子は特別駄目だと言い聞かせられて育ちました。

実際は、良くはないけど特別悪くもない普通の能力だった

両親も含めて、うちは別に特別低い家庭ではありません。

良くはないけど、特別悪くもないといった感じです。

両親も特別に出来ないわけでもなければ、

子供たちも特別に何もかも出来ない子というわけではありません。

確かに著しく不器用だったけど、勉強はまあまあだったと思います、そのまあまあというのも学年で一番二番のような人たちと比べたらキリがないけど、特に悪いわけでもなく。

どうして、特別悪いわけでもないのに、否定の言葉を並べるのかなって疑問。

その答えは、親自身の劣等感なのかなあと思う。

よそのおうちと比べる意味がない

上には上がいてキリがないのだから、自分たちが幸せならそれでいいのですよ。

万単位の高級和牛を食べてうまいと言う人もいれば、数百円の豚こまで充分おいしい人もいます。そこを、庶民層が、なけなしのお金をはたいて高級和牛を買ってうまいうまいと言って幸せでしょうか?自分の予算なりにおいしければそれで良くて、予算に見合わないものを無理して買って楽しいでしょうか?一回二回たまにの贅沢ならわかるけど、いつまでも続けられるものではないし。

例えばだけど、豚こまで満足しているおうちを馬鹿にする人がいたとしても、人に何と言われようとも、こちらは何も迷惑していないのだから。馬鹿にしてくるような虚しい人間はスルーして、内輪で楽しく幸せにやっていたらそれでいいのではないでしょうか。

幼稚なまま大人になっても、就職、結婚、子供を持つことが出来てしまっていた団塊の世代

自分なりの幸せをまだ理解していない状態のまま大人になった

幼稚な両親から生まれてしまい、機能不全家族が起きていたと思います。

生活に困るほど特別貧しいわけではなく、庶民としては必要な物は充分にあるのに、人と比べて、うちは低い低いと劣等感を持ち、自らを不幸にしているのがうちの幼稚な両親だったと思います。

その、よそと比べて低い低いという劣等感自体、幼稚な親が勝手に作り出した話で、事実に伴いません。確かに、お世辞にも優秀な家庭ではありませんが「一般的」と比べて特別低いわけでもなく。

うちの両親のように、こういう人でも団塊の世代の人は普通に就職して結婚・出産し、その結果、私のようなアダルトチルドレンが出来上がりました。時代背景の影響もあったと思います。

結婚したい、家庭を持ちたい、子供を持ちたいという気持ち自体がない

今の時代だったら、このような状況で、子供を持とうと思わないと思います。大人になったら結婚、出産するものという概念が強くない時代なので。

短期間に二人も子供を持つことは、うちの両親の能力としては、出来ることの限界、キャパシティを超えてしまったのだと思います。兄一人だったらどうにかなったと思う。

そういう経緯の中を生きてきたので、私は、自分に対して

充分に子供を育てる力がないのなら、子供はいらないと思います。

結婚したい願望も、子供を欲しいという気持ちもありません。

そんな力はないというのも事実なのですが、能力が足りないから控えようというよりは、欲しいという気持ちが自体がないというほうが近いです。

私は自分なりの幸せに気づいたつもりです

昔は、人にどう映るばかり気にしていました。

でも今は、人にどう映ったって自分が幸せになれるわけじゃないし、自分が楽しいと思うことをやることが一番で、そこにどう映るかは意味のないことだと思っています。

人を巻き込んだ迷惑と、人の自由な事柄とで、区別をつけることが必要

幼稚な両親は、人にどう映るか、と、自分のために角を立てないことを区別出来ていない。たとえ両隣の家の人が特別お金持ちで、うちの二倍の月収だとしても、うちも生活に困っているわけではないのですから自分の月収なりに幸せに生きたらそれでいいのです。

私が本当に具合が悪くて限界でも、事実体に原因があったにも関わらず当時の医学では診断が出なかったために、よそに変に思われるからという理由で学校を休むことを許さないような両親でした、それは他者を巻き込んだ迷惑ではないですよね。

人の顔色ばかりうかがう母親

角を立てるからやってはいけないこと=人を巻き込んだ迷惑と、人にどう映るか=人を巻き込まず個人の自由を区別できない両親なのです。

今の時代だったら、幼稚な両親のような人が家庭を持つことは難しい、ある意味、それはそれで良いのではないだろうかと私は思う

どうぞうちの会社に来てくださいという団塊の世代とは違い、現代では、私のような弱者はそれなりの生活しか得られませんから家庭を持つことは難しいです。それでいいのかもしれません。

子供が、私のように辛い人生を送らなくて済むので。

もしも、こんなトンチンカンで著しく体力もない状態でも、どうにかなってしまっていたら、幼稚な両親と私の辛い人生を、次の世代でも繰り返してしまうかもしれない。

そう考えると、これでいいと思う。

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